「千の風になって」
私のお墓の前で泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
だからお寺に行く必要はない…
なんてとんでもない。
亡くなった人が、本当に存在を消してしまうのは、
人から思い出されなくなった時。
「千の風になって」の歌詞の内容が信じられない時。
あの兼好法師も、
人の亡き後何が悲しいかというと、
その人の生きていた痕跡が何もかもなくなってしまうこと
だと述べている。
亡くなった人を思い、
自分をこの世に作ってくれたご先祖に感謝するために、
お墓があり、宗教があるのだ。
私たちが今こうしてあるのは、自分の力ではない。
そう、I was born。
だから、自分をこの世に存在させてくれたご先祖を思うことは必要なこと。
それは、自分を振り返ること、
自分を強くすることであるのだ。
自分はこの世にひとりではないということを思うことが、
どんなに人を強くするか。
現代日本人の心が荒んでいるならば、
(少なくとも、自殺者が変死を含めず(他国では変死を自殺に含めている)年間3万近くというのは荒んでいるといえると思う)
その原因のひとつは、
日本人が宗教という心のよりどころを忘れたからだと思う。
お墓は、宗教に立ち返るためのツール、スポットとして存在する。
本当に「千の風」になった人を感じられるならばそれがいいかもしれないが、
まだ私達には難しい。
そこで、お墓が存在する。
時がもっと経って、私達が、お墓を要することなく亡くなった人を感じられるようになったら、
宗教は、死生観は、どうなるんだろう。