きょうこのことを思う

ほんの数日前、
「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」への
推薦が取り下げられた。
私としても、それでよかったと思っている。

そもそも私はもとより、世界遺産化には反対だった。
なぜか。
「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」が世界遺産となることで、
教会が本来持つ祈りの場としての役割が薄れることを
強く危惧するからだ。


私は先日、五島・福江島にある「打折教会」を見学した。
そこで、教会を守っている男性のお話を聞いた。
世界遺産候補になったことでやってくるようになった
観光客のマナーが悪いこと。
建物(教会)は信仰においては仮のものに過ぎないのに、
建物ばかりがありがたがられ、
本質には目が向けられないこと。
そして、今、
信仰が見世物になるという「弾圧」を受けているということ。

やっぱり。
本来の目的の「祈り」がまるでないがしろにされている。

もっとも、私が長崎の教会群に興味を持ったのは、
友人に大浦天主堂に連れて行ってもらったことがきっかけ。
そう、私も「観光客」のひとりでしかない。
そんな私でも、はじめて大浦天主堂を訪れたときから、
大浦天主堂が祈りの場であり、
現在もそこでミサが行われているということに
どうもピンとこないものがあった。
なぜなら、大浦天主堂は
館内を見るのに人が並んでいて、
パンフレットも置いてあり、
とても祈りの場とは思えない状態だったからだ。
(もちろん、大浦天主堂のあり方を批判する気はない。
ミサ時には、パンフレットなどは一切片付けて、
祈りの場を作るのだろうし、
何より、大浦天主堂を見なければ、
私が長崎のキリスト教関連の歴史に興味を持ち、
信仰を大切にしようと思うことはなかったわけだから。)


教会はあくまでも祈りの場。
そこを見失うと、何にもならない。
教会を今もなお守る人たちの心を踏みにじるのはもちろん、
世界遺産としての価値も失ってしまう。

長い禁教の歴史の中で信仰を守ってきたことが日本の特色で、そこに焦点を絞る形で推薦書を改めるよう提案した。【出典:朝日新聞デジタル(2016年2月4日20時32分)】
やっぱり、そうだよね。
…と、この記事を読んですぐは
思っていたが、
よく聞くと
「信仰に潜伏期があったことを
前面に出せ」
ということだった。
それなら違う。

宗教関係のものは
祈りを守らなくちゃ。
「信仰こそが世界遺産だ」
打折教会のおじさんはそう言っていた。

現在、自分の考えを世の中に発表するのが容易なことになったと思う。
私もやってみたくて始める。
自分の文章を知り合い以外に見せるのは初めてなので怖いけれど、

そういえば、久しぶりに飛行機に乗ったとき、とても怖かった。
体はシートベルトに縛られたまま、高速で進んでいく。
空を飛んでからは、とても快適で楽しいのに。
離陸するまでのあの感じが苦手なのだ。

それでも、ある時から怖くなくなった。
それは
飛行機に身を任せてみよう
と思ったときだった。

ものごとはなんでもそうだと思う。
ことの初めは慣れないし、
何が起こるかわからなくて怖い。
でも、続けるうちに、だんだんあたりまえになっていき、
最初の「怖い」がいつのまにかどこかへ消えている。

まず、とりかかる。
不安や恐怖、戸惑い、あっていい。
今起こっていることに身を任せる。
すると、だんだん慣れて、うまくいく。

変化が怖い自分への励ましとして、
こんな実のない文章を残すことにした。

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