ウェブログのはじまり、自分が気になったニュースやサイトのURLを
寸評つきで紹介する英語のウェブサイトだったということを初めて知った。(Wikipedia)
言語は違うが、世界でブログにはじめて取り組んだ人と
似たようなことをやっているんだなと思うと、
なんだか少しうれしくなる。


さて、かねてより思っていたことをさらに考えさせるもので、
かつ昨日自分が書いたこととあるところでつながると思われる報道を見た。 
川崎中1男子殺害事件1年 ラップを"居場所"に|特集まるごと ...
www9.nhk.or.jp/ohayou/marugoto/2016/02/0222.html

誰にも自分の苦しい境遇を訴えられない若者が、
自分の境遇をラップで表現する。
彼らには、家庭が崩壊して学校に行かなかった経験があるという。
(メンバー全員そうなのかはわからなかったけれど)
家庭崩壊が原因でいじめられることもあったし、
家庭が崩壊したから、みんなと同じ生活はできないんだと思うようになった、
と言っていた。(記事)


そこで気になったことは、
家庭崩壊と不登校が連動していること。

最初に思った本音としては
『ぼくは勉強ができない』(山田詠美)みたいなことが
今でも起こるんだ、ということだった。

日本の学校が示す社会性
―それは教員によるものだったり、子ども同士でのことだったり、
明示・暗示の両方があるだろうが―
とは、人間の画一化
つまり、社会的に望ましいとされる人間像や、多数派という型に
子どもを当てはめていくことにあるのではと思う。
現に、彼らもラップで同じようなことを訴えていた。

時代の流れで「個性を大切に」と言いながら、
決まり切った一つの型を示し、そこにはめようとする。
上からはめられなくても、自然と集団の中でそろえていく。
型にはまらなければ、集団から出ていかざるを得なくなるが、
少なくとも現在の日本の子どもたちの教育の場のレーンは1本しかない。
そこからはずれたら「不良品」。
…それは、グレてしまうものです。

もちろん、日本の学校は教育において、
学力・人間力ともに一定の成果を上げてはいます。
現に日本の教育方法(たとえば、学校を子どもたちが掃除すること)を
まねしようとしている国もあるらしい。
だが、規格に合っていないものを切り捨てているという問題に
そろそろ目を向けなければ、いつか日本は内側から滅びてしまうのではないか。
実際、若いうちに社会の多数派からはずれてしまった子どもたちで
坂道を転がるように荒れていく者がいる。
単純に、彼らのために治安が悪化するという問題も起こるし、
なにより、次世代を担う若者―しかも、これから少なくなっていくという貴重な存在を―
そんなに簡単につぶしてしまうのでは、未来は暗いのではないか。


まあ、違うものを排除したくなるのはわからなくもないけれども。


多数派と違えばはじかれる。
多数派をつくる「みんな」とはなんだろうか。
「『みんな』という暴力的な存在」については、
まだまだ考えたい。