きょうこのことを思う

2016年02月

「不思議の国のアリス」を題材として、
中学校を舞台にした推理ゲーム。

友達の白ウサギが死体で見つかった。
そこで行われる「精神裁判」。
証拠もないまま進んでいく裁判に異議を唱えた主人公・アリスは、
白ウサギを殺した犯人を暴くため、校内で証拠を探すーー


事件の結末は、ある程度予測がつくかもしれない。
しかし、醍醐味は事件そのものではなく、「精神裁判」とは何かということ。
あまり書くとネタバレになってしまうので避けるが、
子どもが成長する中で生まれる残酷な心が、このゲームのキモ。


裁判の中の、証拠が「ある」「ない」や
登場人物に証拠をつきつけるやり方等、
わかりにくい部分はあるが、
途中広告される動画を見ながら
(見てもお金はかからないし、
せいぜい15秒くらい)
眠れない夜にでも楽しむといいでしょう。

「京町」バス停下車徒歩5分。
スーパーマーケット「エレナ」を目指して歩けばすぐ。

初診料は1200円。
1ヶ月以内に来れば500円。
特に気になるところを聞いてはくれるが、全身やってくれる。
所要時間は1時間。
終わればすっきり。
ご夫婦での経営で、ご主人・奥様ともにとても親切。
私の思う唯一の注意点は、
小さな息子さんが整骨院に降りてくることがあるので、
子どもの声が気になる方には向かないかもしれない。

平日 9:00〜12:30、14:00〜18:00
土曜 9:00〜12:30
日曜休診日

私の知人に、ほぼ毎食カップ麺という人がいる。
お金を節約しているのだという。 
彼は仕事に燃え、朝は6時半、夜は10時半まで働いている。
こんな生活でも、今は若くて、運動をしているから体力があって、仕事に燃えているから倒れないのであって、10年間この生活をしたらやばいと、自分で言っている。
(よい子・よい大人は真似しないでね!)


長生きする必要はあるのかな。
長生きしなくても、
どんなことでもいいから「燃えて」いるのならばそれでいいのではないか。
むしろ、生きがいの中で、
命を燃やし尽くす生き方は、幸せなのではないか。
延命治療に重きを置かれる日本では、
ただ栄養を摂って生きているだけという人もいる。
それが、果たして本人にとっていいことなのか。


「年金は長生きの保険」というのはよく言われること。
保険をかけてまで生きなくていい、と、自分自身については思うし、
日本社会全体についても、
長く生きること以上に
濃く生きることを目指すべきだと思う。



それが、自分自身でなくて大切な人だったら、長生きしてほしいと思ってしまうんだよな…
すると長寿を祝うことというのは、祝われた人は他の人から大切にされているということなのか…

私は1ヶ月で3kgやせたことがある。
その時やったことは、
その1ヶ月間、全くお菓子を食べなかったというだけ。
特別な運動もしていないし、三食きちんと食べている。


それでやせるのはなぜか。
ひとつは、単純に食べる量が減ったということだが、
最大の理由は、
お腹をすかして三食を食べたこと、
つまり、
お菓子以外の三食にきちんと向き合えるようになったからだと思う。

同じことが
「ながら食いをやめたらやせる」
食べることに限らなければ
「スマホの電源を切っておしゃべりをした日はいつもより充実した時間を過ごせる」
もしかすると
「寝る前のスマホをやめるとよく眠れる」
のも、ブルーライトのせいだけではないのかもしれない。


いずれもポイントは、
今に向き合うこと。
頭の中でいろいろ考えている以上、今に向き合っているとはいえない。
インターネットは、世界中の人間の「頭の中」の表象そのものだ。

「Angel Whisper 」じゃないが、
人間はまだまだネットワークの中では生きていない。
(先日、「Angel Whisper 」について勧めるブログを書きました。本当に本当に秀逸な作品です。)

ウェブログのはじまり、自分が気になったニュースやサイトのURLを
寸評つきで紹介する英語のウェブサイトだったということを初めて知った。(Wikipedia)
言語は違うが、世界でブログにはじめて取り組んだ人と
似たようなことをやっているんだなと思うと、
なんだか少しうれしくなる。


さて、かねてより思っていたことをさらに考えさせるもので、
かつ昨日自分が書いたこととあるところでつながると思われる報道を見た。 
川崎中1男子殺害事件1年 ラップを"居場所"に|特集まるごと ...
www9.nhk.or.jp/ohayou/marugoto/2016/02/0222.html

誰にも自分の苦しい境遇を訴えられない若者が、
自分の境遇をラップで表現する。
彼らには、家庭が崩壊して学校に行かなかった経験があるという。
(メンバー全員そうなのかはわからなかったけれど)
家庭崩壊が原因でいじめられることもあったし、
家庭が崩壊したから、みんなと同じ生活はできないんだと思うようになった、
と言っていた。(記事)


そこで気になったことは、
家庭崩壊と不登校が連動していること。

最初に思った本音としては
『ぼくは勉強ができない』(山田詠美)みたいなことが
今でも起こるんだ、ということだった。

日本の学校が示す社会性
―それは教員によるものだったり、子ども同士でのことだったり、
明示・暗示の両方があるだろうが―
とは、人間の画一化
つまり、社会的に望ましいとされる人間像や、多数派という型に
子どもを当てはめていくことにあるのではと思う。
現に、彼らもラップで同じようなことを訴えていた。

時代の流れで「個性を大切に」と言いながら、
決まり切った一つの型を示し、そこにはめようとする。
上からはめられなくても、自然と集団の中でそろえていく。
型にはまらなければ、集団から出ていかざるを得なくなるが、
少なくとも現在の日本の子どもたちの教育の場のレーンは1本しかない。
そこからはずれたら「不良品」。
…それは、グレてしまうものです。

もちろん、日本の学校は教育において、
学力・人間力ともに一定の成果を上げてはいます。
現に日本の教育方法(たとえば、学校を子どもたちが掃除すること)を
まねしようとしている国もあるらしい。
だが、規格に合っていないものを切り捨てているという問題に
そろそろ目を向けなければ、いつか日本は内側から滅びてしまうのではないか。
実際、若いうちに社会の多数派からはずれてしまった子どもたちで
坂道を転がるように荒れていく者がいる。
単純に、彼らのために治安が悪化するという問題も起こるし、
なにより、次世代を担う若者―しかも、これから少なくなっていくという貴重な存在を―
そんなに簡単につぶしてしまうのでは、未来は暗いのではないか。


まあ、違うものを排除したくなるのはわからなくもないけれども。


多数派と違えばはじかれる。
多数派をつくる「みんな」とはなんだろうか。
「『みんな』という暴力的な存在」については、
まだまだ考えたい。

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