きょうこのことを思う

2017年03月

私は1ヶ月半、

一切おやつを断ったことがある。

以降、おやつは食べるが、

毎日食べていたチョコレートはやめた。

1年経ち、

茶碗2杯のご飯が1杯の半分になった。

また1年経ち、一日2食でよくなった。

それと同時期に、

¥15000買っていた服も

以前の3分の2くらいしか買わなくなった。


少しずつ少しずつ

お金を使わないで済む道を探し

飾らずに生きる道を探している。



悟りとは、

・欲望
・煩悩
・感情
を一切捨て去った穏やかな境地。

それらは

「捨てるんだ!」と思って捨てるものではなく

古びたものを手放すように

「もういらないな」と思って捨てるもの。

もつことを推奨する物質文明と逆行する

もたないことを推奨する文明。

旅に、たくさんの荷物は持っていけない。

私たちは此岸を、たくさんの荷物を持って歩いている。

だから疲れる。心を病む。

持ち物を、少しずつ手放そう。

彼岸には何も持っていけないのだから。


だから、まずひとつ手放そう。

別に、なくてもいいものから。

寺には、やたらたくさんの賽銭箱がある。

そんなに金がほしいのか?



違う!!!!!!


まあ、確かにお金はほしいけれども。

お金を使って生活していますから。


だが、賽銭箱は

寺の人間のためにあるのではない。


浄財



寺に来たときくらい、物欲から離れよう

…なんて、住職は言っていたが。

わずかでもお金を出すことが

施し

となるという。


私たちは、

人に何かをしてあげて:施しをおこなって

はじめて心の幸せを得られる生き物である。


ほら…

「してもらってばかりじゃ悪いなあ」

という心がどこかでわくじゃないですか。

日頃、求めてばかりの私たちですから、

仏様に、何かしてさしあげることで

幸福を得よう

というわけ。

できることをしてあげる幸福。


だから、

賽銭箱を見るたびにお金を出さなくてもいいんですよ。



私のお墓の前で泣かないでください

そこに私はいません 眠ってなんかいません


だからお寺に行く必要はない…

なんてとんでもない。



亡くなった人が、本当に存在を消してしまうのは、

人から思い出されなくなった時。

「千の風になって」の歌詞の内容が信じられない時。

あの兼好法師も、
人の亡き後何が悲しいかというと、

その人の生きていた痕跡が何もかもなくなってしまうこと

だと述べている。

亡くなった人を思い、

自分をこの世に作ってくれたご先祖に感謝するために、

お墓があり、宗教があるのだ。

私たちが今こうしてあるのは、自分の力ではない。

そう、I was born

だから、自分をこの世に存在させてくれたご先祖を思うことは必要なこと。

それは、自分を振り返ること、

自分を強くすることであるのだ。

自分はこの世にひとりではないということを思うことが、

どんなに人を強くするか。


現代日本人の心が荒んでいるならば、

(少なくとも、自殺者が変死を含めず(他国では変死を自殺に含めている)年間3万近くというのは荒んでいるといえると思う)

その原因のひとつは、

日本人が宗教という心のよりどころを忘れたからだと思う。


お墓は、宗教に立ち返るためのツール、スポットとして存在する。

本当に「千の風」になった人を感じられるならばそれがいいかもしれないが、

まだ私達には難しい。

そこで、お墓が存在する。


時がもっと経って、私達が、お墓を要することなく亡くなった人を感じられるようになったら、

宗教は、死生観は、どうなるんだろう。

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