あの青年は人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむことのできる人だ。

それが人間にとっていちばんだいじなことなんだからね。
   

一般的に道徳を習っていれば、

そんな当たり前のことが大事なのかと思う。

そんなこと、できない人なんているの?と。

そこから少し大人になると、

人のしあわせを願うことは、

人の不幸を悲しむことより難しいことに気づく。

人のしあわせから、

自分が持たない、持てないしあわせを妬む気持ちが生まれることに気づくからだ。

人の不幸は、気の毒に思いつつ、どこか心地よさを感じないか?


そういう、見えない悪意やモヤモヤを感じ取るから、

大人になってからの私は、いいことも悪いことも、家族以外の人には言えなくなっている。

人のしあわせを願い、人の不幸を悲しむことが、なんの心の曇りもなくできる人は、

おそらく人と自分を切り離すことのできる、

相対的評価で形成されるこの世の中の価値観に染まらない、極めて珍しい人であり、

本当の幸せを手にできる人。

そして、人を幸せにする第一条件が自分が幸せであることというのが本当ならば、

かれなら、まちがいなくきみをしあわせにしてくれるとぼくは信じているよ

というのは正しい見方なのだ。


この言葉は、藤子先生がご自分のお嬢さんに向けたものだと聞いたこともある。

藤子先生が活躍した時代は右肩上がり。

今よりも確実に物質・お金・学力が幸せな人生を保証したはず。

そんな中で、最高の結婚相手の選び方は、

ステータスではなく心の持ち方で選ぶのだということを言っていたのか。


今の私たちは、なんの迷いもなくそうやって人を選ぶことができるだろうか。

私にはまだできない。

だから泣けるという面もあるのかもなあ。